研修医の声
普通って何だろう?
産婦人科研修中の私が毎日のように直面するのは、「普通って何だろう?」という漠然とした問題だ。
産婦人科の普通と言えば、陣痛発来して急いで病院に妊婦さんが連れていかれ、流れるままに分娩室へと通される。
徐々に進行する分娩に耐えながら徐々に親戚が集い、その瞬間を今か今かと待つ最中、旦那も同室し、「頑張れ、頑張れ」と声をかける。
「あと少しですよ」
「頭が出てきましたよ」
「ひっ、ひっ、ふー」
「生まれました」
「おぎゃーおぎゃー」
「3074g、元気な男の子です」
「頑張ったね、偉いよ」
「可愛い、可愛いよ」
よくある声掛けが、よくある状況で聞かれるこれが、一般的に言う普通のお産のイメージ、お産の経過だろう。
妊婦は病気じゃなくて健康そのもの、生まれる子供も勿論元気。
下からが産むのが当たり前...
現代医学によってそうした当たり前が広く一般となったが、一昔は妊婦の死亡率は高く、新生児の救命も難しかった。普通な現実とは異なるだろうが、妊娠そのものは命がけである、というのは医療者の常識だろう。
妊婦は病気ではないが、異常な妊娠と言うものも多くあり、「疾患」として勉強させられた経験が私も多くある。
しかして、それであっても正常妊娠、正常分娩が多いはずだろうと信じてはいた。
この欺瞞にも似た盲信は、産婦人科ローテート初日から私を打ち砕くことになる。
初日、
八時からのカンファレンスを終えた私に告げられたのは、「緊急カイザー」だった。
開腹から生まれるまで2分とかからず。実習でみたどのカイザーよりも速い。
お産とは程遠く見えた救命の迅速さに、ただボーっと見ているほか無かった。
2日目、
内視鏡の勉強を先生に丁寧に教えて貰いオペも楽しく見ることが出来て、午後には満足していた。
そろそろ終わりかと思った私のピッチが鳴った。「緊急カイザー」だった。スムーズな手順で行われる救命は、ただ心臓に悪い。
3日目、
普通の分娩がそろそろ見たい...だが今日は午後から予定カイザー。
でも緊急じゃないから心の準備も出来ると言うもの。カイザーの勉強を午前中にしよう...
そんな心情とは裏腹に、午前中ピッチが鳴る。「緊急カイザー」だった。
いつ私は普通の分娩が見れるのか...
4日目、
出勤時間に合わせてセットした時間の30分前にピッチが鳴る。
「普通のお産です」
半ば信じられない...私は半信半疑、疑心暗鬼。
分娩室に辿りつき目に焼きつくは、児頭の一部。ごくごく普通のお産、ホッとする。
この時点で既に満足。もう何も起きなくていい。普通をみれたのだから。
「先生が来てから忙しいね」
普通とは違うとした看護師さんの一言に、「俺が悪いのか」と若干肩を落とす。
医局秘書さんに笑い飛ばしてもらうことで多少は気持ちが楽になったが...
それでも起こるは、劇的な鉗子分娩。普通ではない状況を打破する為のカード。
胎児を助ける究極の択を通す為に行われるは、クリュッセルとの併用。何も出来ない私はただ狼狽えながら見ることばかり。
泣かない赤子に駆け寄るドクター、
「泣け、泣けよ」
「いいぞー、もっと泣け」
「よし、よし、よし」
ベテランのおじさんドクターが、額に汗を滲ませ血相を変えて必死に戦う様に、私は感動を隠せない。
赤ちゃんは弱いんだ。
5日目、
心臓に悪すぎる展開の連続に私はそろそろ精神的な疲れを感じる。
いい加減、普通の分娩ばかりにしてくれよとお天道様に願う。
が、非情にも天気が悪く、聞いてはくれなそう...そんな下らないことを考えなくともとりわけ何もなく済んだ。
しかして、勉強会の後に鶴岡を取り巻く産科の状況を知る。いいところと悪いところの両方を聞き社会勉強に。現場の人の話しの熱量は一味違うな。
現場で戦うドクターの技量と肝っ玉、それを支える助産師さんや看護師さんが単純にかっこよく見えた。
それと同時に彼らが戦うものが分かってきた。
お産で命を失った際、消えうる命は1つじゃない。
生まれ来るはずの子供から続くだろう命の繋がりも絶えてしまう。
子供一人、妊婦一人の命に宿る可能性は、想像しきれない程に大きなものであり、これを扱う医療者に係る重圧は筆舌に尽くしがたいものだ。
気軽に来ていいもんじゃない、だがこの現場で戦うプロフェッショナル達を、医療者として一度は見ておかなければいけないのだと実感した。
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毎日が劇的な産婦人科研修。これが普通であって欲しくは無い。
産むという行為そのものにドラマがあれば、生まれた子のドラマがある。
後者は、目を背けたくなるようなものばかり。始まる筈だったそのドラマは、あまりに短く終わりを迎える。
「普通に元気に」が普通なのではない。現実は残酷だ。
見ていて悲しいし、関係者の方々の気持ちを考えると目を伏せたくもなる。
同情し、これからも前を向いて頑張れるようエールを送りたいと心の底から思うが、これはあまりにエゴイスティックで失礼なんじゃないかと最近は思う。ただの知ったかぶりのエールなんて犯罪ものでしょう。不要だ。
当事者でない私達に出来るのは、目を背けてはいけない現実に直面した際真摯に受け止め、日々有事に向けて研鑽を続けることしか無い。
だが、そうしたからといって必ずしも戦えるわけでもない。そうした非情な現実で最も重宝されるのは、経験そのもの。つまりは失われてしまった命の灯。先生方はこれを糧に、強い思いで診療に当たっている。
無下に消える命などあってはならない。多くの命を生かせるようにそうした命を灯し続けることこそ、医療者に科せられた宿命なのだ。
先生方の言葉に感じる力強さの正体は、言霊そのものなのだろう。色んな命が見え隠れする。
研修医として、そう感じることこそが、命に対する最大のリスペクトだと信じている。
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心情を吐露すれば辛い側面も多い(というか私はそのイメージが余りに強い)産婦人科ではありますが、医学的な面白さも十分に感じます。
普通に産まれるのを見れば、普通に喜ばしい気持ちにもなれますし感情的にも楽になれる瞬間もあります。
加えて、先生方もいい人ばかり、若手の先生がこれでもかと丁寧に教えてくれますし、2人のベテランの先生も面倒見が良く、充実した日々を送れています。
何だかもう1か月回って満足したかのような言い回しで書いてはいますが、それ程に満足できる1週間を送ることが出来ました。これまでで一番長く感じた1週間です。
荘内病院で研修する上で循環、麻酔は外せないと思いますが、産婦人科も外せませんね。
今のところどこでもいい研修が出来ていると思うのに、それでも基幹型が3人しかいないこの荘内病院。
F氏と共に2人で「これだけ毎日が充実しているのに、他で苦しい思いをしながら研修している人達の気がしれない。彼らの普通って何なんだろう?」とよく話すのだけれど、本当に疑問ですね、、、
さてさて、明日は新生児蘇生講習会、勉強しなきゃなーと思いながらブログを書いている私は予習を終えることはできるのでしょうかね
...この怠慢さが私の普通でなければいいのですが
1年目研修医 佐藤
2018年06月30日