研修医の声
デンデラ
「姥捨山の続編の映画あるって聞いたことあるけど知ってる?」
Sがおもむろに話し始める
「庄内で撮ったって聞いたけど」
ぬぬぬ、それなら少しはきいたことあるかもだが...結構色んなの撮ってるからわからない
「捨てられた婆たちで若者たちに復讐するB級映画らしいよ」
おいおいおい、設定的にそれがB級ってありえないでしょ、と突っ込んでみるもちょっと気になる
ということで探してみてみましたよデンデラ
調べるとAmazon primeで見れるということで即視聴
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始まりは70歳女性が雪山に置いていかれる場面から
村の掟で70を超えたら、じじばば問わず死に装束を着せられて捨てられる
極楽浄土を唱えながら、意識が遠のいていくところを、更に年上の老婆に助けられる
連れていかれた先は、自分より年上の女性達が皆せっせと働いている集落だった
皆一度はムラに捨てられた者達
集落の長は100歳女性、捨てられた婆のみを助けて50人を超える
婆集落デンデラを作り、そのルールそのものとなっていた
そこでは身分差は無く、誰もが平等、食料も均等であり元いた「ムラ」とは異なる
お互いが助け合うのが信条で、目が見えないものが居れば目になってあげる者、体が動かせない者が居ればその介護をし温かい場所で常に暖を取らせてあげる
ADLが自立している高齢者は皆、真冬の雪山で働き、働けない者が働けないことに文句は言わない
「ムラと違って平等だから」
と、むしろ生き生きとしているのだ
「ムラ」では生産性の低い人間は淘汰され、ムラを強くする為に若者が優遇される
子を育ててねばならないから、高齢者たちは不遇を受けるのだ
100歳の長は、集落の人数が増えてきた頃合いを見計らって、「ムラ」を襲うことを考える
現行の上下関係を無くし、誰もが平等で、平等の為に働くことが当たり前の世界を作るのだ、と
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ここまで見ると、相当な社会派作品なのでは?と思わせるテーマが随所に散りばめられている
高齢者だからとて過度な社会福祉は不必要であり、自らのADLが自立しているならば自給自足の生活は可能である、と。自分が属する社会の掟が自分の人権を優先するものであるから、そうした自分の可能性を抑制されており、本来それは打開しなければならない。適切な社会参加の機会が与えられるならば老いても仕事は可能であり、老老介護を含む高齢者同士での社会福祉は実現可能である。
とした、現代にも通ずる高齢者の社会参加の在り方を序盤から議論し始めた。
現代では老いれば老人ホームであったり、デイサービスであったりを利用し、若い世代の世話になりながら「高齢者扱い」をされるが、本来それは若者の力を借りずとも高齢者同士での共同生活のシステムが出来上がっていれば不必要であり、未だ見つからない超高齢社会の答えの一つなのかもしれない。
高齢者扱いしないことこそが、若年世代と共存する為の1つの方法であり、高齢者も高齢者だと扱われないような働きをすることが可能ならばそうすべきで、高齢者扱いをされることに疑問を持たねばならない
との問題提起(いささか拡大解釈もすぎるかもしれないが)が上記のシーンで成されている。
視点が現代から見たものであるため、こうした解釈が自然とできたが、となれば今後の展開も予想される
若年世代との戦争をするということは、連綿と続いてきた人間という種としての生存戦略を問うということなのか、と。
少なからず、テーマが変遷するであろうことは誰もが必然と考えるところだが、話は急展開を迎える
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さて戦いだ、と燃える婆たちの集落に、熊が襲撃する
婆たちを食い散らかし、人の味を覚えた熊が更に襲い掛かる
一端は倒したはずの熊だが、また他の熊が現れ集落を破壊していく
最後には生き残った2人の婆が元いたムラまで熊を誘導し、元々いたムラの住民たちを熊に襲わせる。襲ったのは手負いにさせた小熊の親熊
そこで最終的に主人公の婆は熊に問いかけるのだ
「勝ったのはどっちなの?」と
そして閉幕
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問題提起した後の展開は一転してどこかしらでみたようなサメ映画の展開
完全にB級映画そのものだった
中でも熊との格闘シーンは圧巻で、婆たちだからスピード感のかけらもなく、アクションシーンも全く動きが無い
ゆっくりと棒で叩く為全くダメージにならず、逆に次々となぎ倒されていく婆たち
一度は倒したはずの熊が再び襲いかかるシーンを迎えたときには、もう既に何を見せられているのかわからない
物語の半分は熊との戦闘、実際はパニック映画だったのだ
姥捨て山の続きが熊との戦闘だった、なんて誰も想像しえなかっただろう
流石に何もいえねえ...
しかし冷静に見返してみると描写は細かいのだ
婆たちはみな白内障、おおよそコンタクトで演出している人もいたんじゃないかと思うほど白みがかった眼を光らせる
動きがスローモーなのもそれはその通りだし、一度こけたら立ち上がれないのも忠実でいい
もし、動きが異様にキレッキレな婆集団が、5人でグループを作って熊を集団でやっつけてたりなんかしたらそっちのが違和感があったに違いない
最後までノンストップで楽しく見れ...たわけでなく、かなり飛ばし飛ばしに見たが、なかなか笑えた映画
と、見終えた直後はそう思った
翌日以降更に冷静に振り返ってみれば、この熊に託された意味はもうちょっと複雑なのかもしれない
そもそも論として、熊による襲撃が無くともメインテーマは伝えられたはず
だがにも関わらず熊に襲わせたと言うことは、この熊そのものが深い意味を持つということ
この熊と言うのはこの舞台となった時代と、婆たちから見たことを加味すれば「容易にはコントロールできない象徴的存在」と言っていいだろう
それも「人間の味を知った」ということから人智のコントロールから離れた凶暴な存在
結局はこの熊に血の味を偶然に覚えさせてしまった婆たちは壊滅させられてしまったが、最後の発言からこの熊によってムラを壊滅させることが出来たような印象からして、婆たちの大願は果たされた可能性も示唆されている
しかし、熊たちは熊たちで親から子への生命の連鎖を保つ為に行っているわけで、たとえ婆たちがムラの若者に勝ったとしても、熊たちの連鎖が続いている為に本質的に勝ったかと言えると微妙なところだし、人間という種の連鎖は途絶えた為、広く見れば人間は負けたとも言える
この意味で勝者不在かつ敗者不明の戦いが熊によって起こされ終止符を起こされた
ではこの熊とは何か
原作が2009年、映画が2011年であることを加味すれば、リーマンショックによる経済の冷え込みとか東日本大震災とか、世代問わずして困窮させるものを指しているのだろう
いくら憎いからと言っても、痛み分けで終わることは勝利とは言わない
両者敗北となって気付くのは、協力すべきだったということそれだけ
問題が起きる前に、誰もが平等になれるような政策を準備し、それの為により後ろの世代につけを残してはならないのだ、というメッセージ性も拡大解釈すればあったのではないだろうか
。
ただ何も考えずに見ていれば、ただのディストピア物だったりパニックB級映画だが、熊の象徴するものが何なのか考えながら見れば最後まで社会派の映画
テーマは人類皆平等であるべき、で社会主義に見えて、その割には高齢社会への回答は高齢者だけでも回せるということからして極めて資本主義的
高齢者の気の持ちよう一つで高齢社会は乗り越えられると回答を見せた
だが熊(高齢者だけでは攻略できず、若者と共に力を合わせねばならない敵)は婆たちでは倒せなかった
慣習にとらわれず、お互いが本当の意味で力を出し合って災いに向き合っていくにはどうしたらいいのだろう
「熊」は人的に引き起こされるものとも見て取れるし、それにあぐらをかいてきたのは誰だろう
なかなか...回答があっさり見れているようで後味が悪いものですね
ということで、庄内で撮った映画を紹介してみました
・・・ただのサメ映画的な熊映画として見ても全然笑えると思うので、チェックしてみてください
1年目研修医 佐藤
2019年02月22日