研修医の声
「たま」信仰に潜む思考過程
ある日の外来見学、
お年よりの患者さん
聞けば聞くほど神経から来る痺れで眠れないように思えるのだが...
「漢方薬出せば効きそうですけど、出さないんです?半夏瀉心湯ばっちり適応ありそうですけど」
いつも通り、思ったことをずけずけという私
「そうなんだよ、でもね、それは粉薬でしょ。だから出せないんだよ」
えっ・・・?ノータイムで驚く、粉だから出せない・・・?のだと
「お薬手帳見ると何一つ粉薬なかったでしょ?この年齢で粉がないってことは粉薬が効かないって思ってる人の可能性が高い。色々苦労されてお薬調整されてるみたいだからね。いくら効くお薬でもちょっと飲んで効かなかったからとやめられちゃうんだよ。だから、本人が効くと思ってるだろう玉で効きそうなの出して、効かなかったら粉薬にするんだよ」
「玉で効かないときに出すのが、粉薬、もしかしたら効くかもしれないから、しょうがないから出すね、って」
なるほど...医療面接は奥深い
いくら効く薬だからといって説明したところで、それが効くと理解されると限らないばかりか受け入れられるかもわからない
そもそもお薬手帳を見た時に、これまで気にしていたのは「○T△x」のところだけ
お薬の形状なんて気にする時間があったら、既往歴に何があるかを類推して、現在の主訴に合いそうな病態を頭の中で挙げる作業をしていた
「何故その薬剤になったのか」、まではその道の専門家の知識を持って1stline 2ndlineを知らなきゃ細かくはわからないし、それはおろか形状からその患者さんの思想まで考えられるとは...
加えて、視覚的かつ体感的に「玉」か「粉」かだけで判断している患者さんの方が多いのだというのは思ってもみなかった
本命の薬を飲んでもらうための展開づくり・・・本命に繋げる為の納得できるような準備過程があまりにもわかりやすくて
こればっかしは色んな認知機能の患者を相手にしているドクターじゃなければ難しいように思う
「玉より粉だ」と思ってもらう為にはまず「玉で効く薬がないことを理解してもらう」ことが必要である
その為に現状改善の為の複数のアプローチの中から、玉で攻める戦術を選択する
至ってシンプルな発想だが自分の気になることだけに延々と繰り返し話す患者さんを、相互的コミュニケーションが可能な医療面接に引き戻しながらも、自分の中で患者さんにとって最良のルートに乗せる為の戦略を考える
同時にこなせるトークスキルと流れを読む力はよっぽど外来に慣れていないと難しい、つまりは高等技術
如何にすればあれだけの展開力を手に入れられるのだろうか。
高齢者の話し相手をするのは私は得意だが、その思考過程までは考えたことが無い
その前に一般に高齢者の特徴とは何だろうか
によれば、「年齢を重ねるとともに頑固になり、保守的傾向が強くなります」
「疑いの感情を抱きやすくなる」「自分自身の健康状態への関心が異常に高まる」「精神機能の低下」
「知的能力の面では年齢を重ねても、能力が比較的保たれる」
とのこと
至極一般的ですね
更に加えて言えば、認知機能は日常生活に支障をきたさないまでも誰もが多かれ少なかれ影響を受けることが多いもの
ERを経験していれば「年相応の認知機能低下はあるが認知症では無い」という表現をよくきく
ADLはしっかりしており会話可能、だけどそれなりのボケはあるのだと
に依れば、抽象的な考え方は難しくなると
医学的な説明が抽象的かと言えば、これは議論が分かれるところだと思うが、自分が知らない言語を使った論述に置いて人は抽象的と感じることの方が多いだろう
例えばセンターレベルの現代文の論説
中学生が読もうとしたらイマイチ難しくてホワットしているような印象を受けるだろうが、高校生になり言葉の意味も理解できるようになれば至極具体的な言語が言い換えられ続けているように感じるだろう
大学二次レベルの数学も、ろくに数学をやったことが無い人が解答を見れば全く持ってイライラしてくるだろうが、やり込んでいる立場からすると理路整然とした具体的な文章の繋がりのように感じる
人によって抽象的と捉えるべき基準は異なると考えられる
使われる言語がわからないという時点で認識の差というのは生まれる
いくらテクニカルタームを用いずに説明しようにも、細かな機序を省略したり言い換えたりしてわかりやすくしたところで、解剖学用語であったり、使う道具に関しては固有名詞な故に言い換えが難しくなる
こうなれば「難しい単語を使うこの先生の話は分からない、藪医者だ」となるわけだ
そうであってはICならざると言うもので、先生方は何とかわかりやすくなるように色んな言い換えを行ってわかるように説明する
日常生活に置き換えようと、つまりはより具体的になるように例えてみたり、テクニカルタームをより身近な言語に置き換えてみたりと試行錯誤する
そうした例えがその患者さんの日常にあり容易にイメージできる際、すんなり飲み込んで貰えることが多いのだがそれさえも理解されず、即興で新たな例えを作らねばならず説明困難となるケースも中にはある
1人1人が「鉄板の説明方法」というのも持っており、それに準じて説明する
外科だと「院長の説明は本当に患者さんに受け入れられる」と評判だが、それこそ循環、呼吸器、麻酔で見た先生のICもまた万人受けして貰える、共調が極まった説明だった(このくだりは以前書いた)
それで太刀打ちいかないとなると・・・・本当に困り者だが、それでも根強くシンプル&シンプルに説明を切り詰めていくことが多い
また、頭の回転もやや遅くなってしまう、というのも年の性というもので、込み入った論理的思考や、文脈理解などはなかなか難しくなる
私も親族へのICを聞いたことがあるのだが、医師の説明内容は至ってシンプル、私もあまりに分かりやすすぎて感服致した所存だが、当人は「はい、はい、はい」
わかってる気配が全くないのだ
終えた後に、
「結局なんだがわがんね。この治療すれば元通りなって、すぐ痛みもなぐなるあんろ」
全くもってかすりさえしていない
「治療前より動けるようにはならないけど、動く度の痛みはなくなる。けれど傷の痛みはしばらく残る」
こう説明しても、
「はぁ、どういうごとや」
より簡単に言い換えたはずなのに、理解されることは結局なかった
基本的に医療=ムンテラの時代において、「治療をすれば全快する」というイメージは当たり前だったのだろう
選挙に例えれば「年金なぐなっどわりがら○○党、電話きたっけはげ」
マニフェストは必ず守られる、という選挙戦略の時代に生きて来た人間からすれば、マニフェストをそっくり信じて投票するのも当たり前だろう
だがマニフェスト詐欺が横行している昨今では、年金持続の為の実際の財源は?その分のしわ寄せはどこに?消費税なくすのはいいけど、医療費上がるんでないの?と、ネットなり色んなホームページなり有識者の番組なりをしらみ潰しにみていかなければ、自分の思う最良の選択は出来なくなっている
すなはち情報化社会に伴い、情報の取捨選択がどの場面においても求められ、それら全てをアセスメントしなければならない、頭が疲れる時代になっている
物事のメリット、デメリットの差し引きまで考え理解し、納得した上での行動選択をするのは認知機能が落ちていけば難しくなる(無論、これは暴論に近く元からの知性に依存することかと思うが)
であれば、よりシンプルなワンフレーズに飛びつき、実利を得れなかった場合に「嘘だ」と反応するほかないのだ
そう、「粉薬のんでも全く効かないから、玉薬じゃなきゃ効かないんだ。粉薬なんて小さいころしかのんだことね。そんな粉薬出すあの医者はやぶ医者だ」という論法のように
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
非常に毒毒しい引用をしたが、上記のようあえて「お年より」と認知機能が落ちてしまい、理解困難なケースに絞ってエピソードを紹介したのには理由がある
これこそ読者が「わかりやすい」からだ
読者に高齢者層がいず、それ以下の若者(70以下)しか読まないからこそ、最も理解しやすく「自分は違う」と思えるようなケースを引用した。
さて私の考える一般論として、「人は認知機能に関わらず、自分の理解以上の論理的追及を受けた際、感情論に流れるケースが往々にしてある」
「わからない」ということは極めてストレスフルだからだ
その感情が膨れ上がれば、気付けば人の悪口やレッテル張りに繋がり、同じくストレスを感じた者たちが同様に声を揃えて大きな風評被害へと繋がっていく
「表現の自由だから」、もしくは「価値観が違うから」と自らの耳に聞こえの良いフレーズを隠れ蓑に武装した気でいる、「意味する本当のところを知らないのに」、だ
そういった思考に出会った際、私はどうにも悲しくなってしまう
より正しいことを正しく伝えたいとき、同調はさせるつもりはないまでも、理解される為にはどうしたらいいのだろうか、と頭を悩ますのだが知識量の差や理解力の違いにはどうしても目を瞑ることが出来ない
何事も難しい内容の全てを簡単に説明しきることは不可能なのだ
もしできるのならば、誰でも東大に合格できてしまう
それでも私はまだまだ研修医だから夢を見るし、すべての患者さんに対等に、かつ平等にわたり合って理解してもらおうと言葉を砕きに砕いてわかりやすくしようとするのだが、相手の理解力の範疇だけでは論理的説明を完結させることは困難であることに気付いてしまう
それは自分に非があり、自分の持っている言葉には理解してもらうだけの力が無い、経験が無いからこその限界がある
一定のレベルを相手にした時、誰もがこうした経験に陥ることだろう
だからとパターナリズムへの終始は面白くはない
先生方は説明方法に工夫、技術を持つようになる
すなはちインフォームドコンセントの形をとる目的で、詳細な話はある程度間引き、かいつまんだ重要な話を、箇条書きにすればとても短くなるような話を、何度も繰り返し話すことが医療面接では一般的となっているのだと思う
「難しい話でも、何度も話せば体感的にわかってもらえる」
「お話はみなわかった気でいるのだから、何度も根気強く話をする機会を設けることが必要だ」
外科のオーベンの先生のお言葉だ
こと緩和、化学療法に関してはそのきらいは強いだろう
喋りがうまい先生がゴロゴロいるのも頷ける
外科の先生は喋りが出来ないとやっていけないようだ
オーベン世代はみな天才的に喋りがうまい
経験がものを言うのだ
―――――――――――――
さて、話を戻して、
「粉はだめだ。玉のがいい」
こうした患者さんに対して、如何にして粉の良さを伝えるか
薬効の説明をしたところで満足いくレベルの理解は得られない
繰り返し説明するべきか?それでも小難しい薬理学的機序も、論文を引き合いに何かしらの研究結果を紹介したとて難しくて理解などされない
ではどうするか?
要は理解されるためには、「体感的にわかってもらえればいい」
前述のような薬の優劣を体感的にわかるような演出こそが、日々の自分の状態の変化を自らでモニタリングしながら理解できる「繰り返しの説明」と同じニュアンスになるのだ
治療の効能効果の伝え方は実は一つではない
とどのつまり、
「医療面接は奥深い」
このまとめの一言もただ「わかりやすい」、本記事はそれだけの話
2年目研修医 佐藤
2019年07月26日