研修医の声

外科来襲

ほのぼのとした日々に終止符を打つかの如く、ついに志望科の連続研修が始まる

外科来襲

自らこれを選んだのにこの言葉選びはいかがなものかとは思うが、実際この言葉以外に胸中を表しづらい

定時では帰れなくとも、晩御飯どきにはしっかり帰れた生活がここ二か月続いていたのだが、早く帰れて今は九時、多くが十一時過ぎに帰路につく

言われてから動くのでは遅いのだろうけれど、言われてからやってみると朝早くから働くのは存外気分がいいもので、夜遅くに帰るということはそれまでにやることがあるからで充実している日々に

教科書を読んでしっかり勉強をしたくなるのはいい傾向だが...やる時間を作るにはまだ至ってはいない

意識引き上げられ系ながら、少しずつやれることを増やしていきたいところ。その意味では土日はチャンスだ。時間がゆっくりと過ぎていく。

週の疲れが残ったままの土日の朝回診は、聞く人が聞けばブラックと言うのだろうが、それが地域で働くものの定め、替えがいないのだからしょうがない。しかし、土日の朝回診ほど面白いものは他にない。

やることがそれだけで緊急のイベントもあまり起きないともなればマイペースでいられる。気付けばその後もダラダラ残り、ERのカルテを確認しながら勉強なんかしてしまったり。少しデキレジじゃない?

そう調子に乗っていられるのもほんの一瞬だけ、すぐに飛んでくるオーベンクイズはどれも分からないものばかりでやっぱり今日もヤバレジだ

PEEP5の理由は?

と問われて全く想像もつかなかった。もう5が最低基準だし、ウィーニング条件にも入ってるんだからそれでいいじゃんとも思い、わかりません、答えは?と問うても、「自分で調べろ。全てに理由がある」と。

こんちくしょうの精神でとりあえずネットサーフィンから始まり、病気がみえるイヤーノート、研修医向けの冊子、文献検索...ここまでやっても答えが出てこない

結果的に行き着いたのは埃をかぶった標準生理学、基礎医学に立ち返らないと答えが出てこないクイズだなんて悪問だろうと思いながらも、浅知恵を咎めるオーベンを拝む他無い

私が見つけた答えを言ったところできっと正解、だとは言ってはくれないだろう。とりあえずは胸に刻み込もうと思う、「一般に呼気時のPEEPは-2から-4」だと。これを超えるのが5だから、と単純思考で理解したつもりでいるのだが、もし違ったら私に教えて頂きたい。

そんな楽しい外科生活の中でここ最近、「顔見知り」が入院することが相次いだ。

「顔見知り」が入院するともなればこちらとしても職権乱用がてら少し気合を入れてバイタルを見たり、カルテを書いてみたりもする...無論何の影響力も意味もないのだが

普段ならそんな無駄な労力を使わず省エネで生きたい性格なのに、なぜ顔見知りだからと率先して考えてしまうのか

そう思ってしまうのも、「医療者目線」で見ているというよりかは「患者家族目線」で見てしまっているからだろう

そこで気づいたのだが、「患者家族目線に立つ」として普段から考えようとしてもそれは実を伴っていないのでは?と思う

というのも、よく知らない患者さんが目の前にいるのと、よく知っている患者さんがいるのとでは、その病態や病状説明に対する切迫感や、不安感など現実的に押し寄せるであろう感情の絶対値が大きく異なってくる

リアリティーが違うのだ

それこそ普段は患者本人に真実を伏せるのは誤りだ、と思っていたとしても実際の顔見知りであれば真実を伏せて最後まで明るく生きてもらいたいとも思うし、普段はささいなことでも大丈夫と思っていても顔見知りであれば余計不安に思ったりもする

その患者に対し、これでもかとよく知っていれば、より心理面に関してリアリティーが生まれてしまい感情的な側面に終始する傾向が生まれてくる

こう書けば少し偏見が生まれるかもしれないが、より正しい書き方をすれば、医学的な最適解というよりも、家族寄りの視点も加味した上での最善解を選ぶ傾向が生まれてくる、とすべきか

具体的にはその患者の仕事を考慮して入院時期を考慮するだとか、社会的事情を考慮して治療法を選択するだとかだろう

これに加えて患者本人の心理状況が筒抜けになれば、「ムンテラ」の意味での病状説明もより最善な方向に導くことができるだろう

ここから医師、患者、家族間での重要な意思決定をする際に、双方共にお互いのことをよく知っていなければ、この三者間における最善は取れないのではないかとも思う

しかしそれをするには多くの時間が必要となるし、「のめりこんで帰ってこれない」事態になるようにも思う

いうなれば医師の過干渉の状態、本来患者ー家族間だけで解決できるはずの問題が、医師が過干渉したがせいで余計こじれ医師がいなければ解決できないような事態にもなりうる可能性を秘める

適切な距離感における関係性の構築の為の交渉術がなければ、過干渉気味のアプローチは三者三葉に己の首を絞めてしまうのかもしれない

また、最善の定義も人によってまちまちなのだろう

患者さんにとっての最善と医療者にとっての最善はもちろん異なる可能性が高い

加えて、最善よりも適切を目指す方がいい局面もまた多い

情報を引き出し最善と、適切をより近づける為にどうすべきかとなれば、國松先生のいう「丁寧」に近いが、優しくすることが大事なように思う

情報をより引き出しやすくしながらも距離感を十分にとる為には、「人たらし」でいてかつ本心は引き気味でいた方がよいのかもしれない

ただこれもこう書いてしまうと、ある種上からの思想にも見えてしまうのが癪ではあるのだが...回診で見ていて話の上手い先生は例に漏れず患者の前では裏表を見せない「人たらし」に見えるのだからしょうがない(無論演じている可能性は否定できないのだが)

されどそれでも患者さんが良く思ってくれるのならそれでいいのだろう

緩和ローテで見ている内に、これまで以上に患者さんに優しくなれたのだが、やはり知り合いが入院ともなればそれ以上に優しくなってしまう

手術でもそう、普段何気なく見ている手術もどうも感傷的になる

PDを見ていれば、「ああ、これが出来ていればばーちゃんが今も生きていたかもしれないし、でもこの手術があったから誰かのばーちゃんであるこの患者さんがまだ生きていられるんだよなぁ」といったふうに、無事に手術が終わればどうもめでたく思ってしまう

いくらもう十分長生きしたといっていても、誰だって死ぬのは怖いし痛いのは嫌なわけです

同時に、その人が死んで10年以上経ったって、元気に生きていて欲しいと思う人だっているわけです

そんな人たちの為に、「もっと生きたい、もっとおいしいご飯を食べていたい、もっと生きていて欲しい」を叶える為に身を粉にして働く消化器外科、めちゃくちゃかっこいいじゃないですか

こんな素敵なことは無いじゃないですか

今日も明日も朝から集中治療室へ、誰かのばーちゃんを良くする手出すけをほんのちょっと出来るように

ぼろくそに言われながらも、今日も楽しく外科を満喫しています

2年目研修医 佐藤

2019年10月03日

研修医

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