研修医の声

立場と器

医療とはなにか、こう問われた時あなたは何と答えるだろうか。

人を治すためのもの、というものもいれば、人の為になることをするもの、というものもいるだろう。

その人その人でこれまで自分が携わってきた医療の質や経験から、色んな言葉で以て自分が感じたことを答えるだろう。

医療者の中でさえ答えが割れるだろうこの問いは、非医療者にとっても答えが割れるのは明らかである。

私も医療に携わる前と、携わっている今では大きく答えが変わってきているし、何なら今抱く答えそのものが「一つには絞れない、わからないもの」といった、あまりに無鉄砲なものになってしまっている。

それもそのはず、治療そのものが失敗すれば傷害となる外科をローテートしているのだから、医療そのものが単にいいものというよりも怖いものという認識の方が強くなっている。

自分の行う全ての行為が人を傷つけるものだと分かりながらも、その病気を治す為に患者と共に医療者も勇気を持ってリスクを伴う医療を行う。

「治しますから」と言い何ともなしに成功する様を見ていけば必然とかっこいいと思うものだが、それに耐えうるだけの技術と精神を持つ先生方はもはや超人か何かなのではないかと思ってしまう外科医であるという治療の最前線にある立場にいて、それに見合うだけの器を持っているというのは、相応の努力と経験と自信が無ければ成り立たないものだろう。

ただ、こう感じてしまう私自身があまりに考えすぎで、もっと鈍感な方がいいと言えばそれまでなのかもしれないが、私が見てしまっている光景はそうさせるにはあまりにも十分すぎる。今の教えを乞える立場と時間がなければ、まず間違いなく私は外科になろうとも、医者を続けようとも思わないだろう。

皮肉ながら医者は人を治す仕事をするにも関わらず、人が亡くなる瞬間を多く見る職業だ。

医学の進歩に伴い80を超えても平気で手術で癌を取れるし、90を超えた急性期疾患をも開腹で治せるし、はたまた100近くても抗生剤治療で致死的病態をも治すことが出来る。

こうした積極的治療で医学的に長生きが出来る道筋を示すことが出来たとしても、それに伴う合併症で苦しまれる患者さんも少なくはない。入院に伴って認知症が進む、身体機能が落ちる、帰る先がなくなる、お金がかかるなど科に関わらないものもあれば、胃が小さくなったから、再建に伴う合併症など外科的なものまで治療するだけではその病気は終わらない。

より長生きをする為に行った治療によって、長生きが可能になる体にメンテナンスすることはできるがその体と上手く付き合っていくこと自体は患者さんやその家族に委ねられる。

そうして誰もが努力した上であっても必ず来る体の限界を悟った患者さん達を、最後に看取るのだ。

そこまで生き続けた患者さん達は悟ったように「あどいい」「もう十分だ」という人も少なくなく、そういった様を見て天命というものを感じてしまう。

人の終わりが近い瞬間を目にしても、自分が医療者の立場の感覚であれば、ある程度は冷静に見ていられる。

急性期で目の前に心肺停止で運ばれてきた患者さんがいても、ACLSに準じてやることはやろうとするし、0でピーっと音を出すモニターを見たとしてもアルゴリズム通りにまずは動く。

採血データも相当に悪く、脳のダメージも深刻が予想され、時間も相当にかかっていて蘇生は難しいともなれば落ち着いて分かりやすくご家族にお話をして、最後の時間の準備を進める。

なるたけご家族側の立場を考えて、より良い言葉を選んで、より良い話し方をと心がけてはみるがそんな計らいよりも時間と共に受け入れて下さることが多いように感じる。時間は偉大だ。

そうした場面に「医療者」の立場でしかこれまで立ち会ったことがなかった。

見慣れたはずの場面は、立場が変わればすべて違って見えた。

体は全く動かない。何をしているかもよくわかる。先生方が頑張って救命措置をしているのもわかる。

ROSCをしたとか、Aラインがとか、血ガスの値、採血の値、そうしたお話をして説明してくれるのも、何もかもが頭に残らない。

ただその瞬間に、目に入る見慣れた姿が訴えかけるのだ。もう大丈夫、と。

でも同意はまだ得られていない、私にもその権限がない。だからこそ全力での救命措置が施される。アドレナリンも、挿管下での呼吸管理も。

普段はPEAなりVFなりに見えるはずの波形が、有効な波形に見えてくる。

SpO2、血圧共に40台にも関わらず一喜一憂をしてしまう。

「医療者の立場」であればそれは近い、と思うことだろう。

「家族の立場」でそれを見れば、動きがあることそれだけで生を感じて情を動かされる。

最期の最期まで、戦っていた。基線を最後まで震わせて、天命に抗い続けた。

一つ一つの波形こそが、今生きていることを実感させた。

その波形にこれまでの思い出を重ね、ただ感謝し感動するしかなかった。

叶うならば、この最期の輝きが誰の目にも届いてほしい。

そして、「確認」を皆で見届けたい。

不幸なことが起きているはずなのだが、その中であっても今見届けることが出来る皆でそれが出来たことは残された私たちにとってはとても幸せなことだった。

そこまで待ってくれた先生方は、本当に美しく見えた。

やけに響くモニターのアラーム音に現実に引き戻され、目の前に残るのは魂の抜け殻というには忍びない、魂が未だ息吹く器だった。

随分に宗教的な話ではあるが、魂は蘇らないし、輪廻転生もない、魂は常に体と共に居続ける、そう思わせた。

「家族」の立場で見れば、これだけのいろいろなことを感じさせる瞬間を、私たちは医療者の立場で「こなしていた」のだ。

本来は激情が渦巻くはずの、5分が永遠に感じられるような、非現実的な瞬間なのに、だ。

時間が惜しいから早くとせかす人は誰もいない、先生方は皆、時が来るまで待って下さったし、看護師さん達も「落ち着いたら声かけてください」と時間を委ねてくれた。

無論、時間を作るのが医療者側からしたら当たり前にしていることなのだが、家族側からすればこれ以上ない親切だし、これ以上ないありがたいことだった。

何をするにも、何を感じるにも「医療者」と「家族」では全てが異なる。

どれも身をもって体験させられた。

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先日、PEACE(緩和ケア研修会)を受講したのだが、これもまた医療者と家族では全く異なるし、がんと告知することの難しさも体験した。

まず間違いなく言えるのは、それを宣告するに値するだけの経験も知識も私にはないということだ。その器ではない。

上級医の先生方の強さを改めて実感した。

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立場と器で、医療の全てが違って見えてくる。

それを知ってしまったがせいで、少し疲れてしまいそうな気もしてくるのだが...

一晩寝れば復活するし、アホに鈍感にいつも通り生きていれば大丈夫でしょうかね。

医療の両側面を知ってしまった、そんな10月でした。

2年目研修医 佐藤

2019年10月21日

研修医

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