研修医の声
因果関係はいいとこどりで。
今年はどうも運がいい。
何をするにも常に最悪の場合を考えながらちょっと悪い選択肢を取り続けて、相対的にすべてよく見るようにしてきた昨年。
今年は悪いものに見慣れた私に神様がお授けをくれたのか、相対的にも絶対的にも良さげな選択肢が浮かび、その結果として良い方向に寄っている気がする。
他の人から見ればそれは別にいいものとは見られないのかもしれないけれど、私の価値観で言えば十分に満足のいくレベルで、得られる結果がほんの少し嬉しいものであっても私の目にかかれば拡大解釈・過大評価という二つのフィルターが作用して全力で笑っていられるものになる。
こうあたかも悟りを開いたかのようなことを連ねてしまうのは、言葉通りに悟りを開いたからであろう。
人と一切話すこと無くどこへも行けない5日間を過ごせば、自問自答の日々となる。
自分との会話は、他者から全く聞こえないならば自問自答、他者から数語聞かれれば独り言、他者からすべてが聞かれればそれはもう病気の人のように煙たがられる。
しかし誰からも聞かれなければ一人で長台詞を言う分には、自問自答だ。自分の声のみが聞こえる病床に伏せず起き続ける日々に私は、私に問い続けたのだ。「私はなぜ私なのか」と。宇宙の中でも星屑のような存在でしかない私が、なぜここに存在しているのかという、小学校2年生の頃から自らに問い続けてきたものだが、問い続けるうちに見えてきた答えは「私がこれまでに培った価値観、思想とその背景を一般化すること行為そのもの」であった。
全ての物事に評価的態度を取り続けることで、自他の区別がより明確化し自我が確立してくる。同じような努力量の人間、同じような人生観を持った人間が集約し難い地方に住み続けたのも良い方向に働いた。都市部のような明確な階層化社会で飼いならされる現代人とは異なり、自らで階層を見出し、自らで立ち回りを求められるブラインド化された階層化社会は、誰かに規定されることなく肩肘張らずに生きるにはちょうど良かったのだ。
一方で表向きにも、裏向きにも明確な階層化社会で生きる職業がある。
それは上下関係に厳しく、それは学歴に抗えない。
旧態依然としており、規律に反することは何であっても許せない。
その実規律に反することを見つけ、その点数で競うことが生業ともなる、どこか反社会的ではないかとさえ思ってしまう社会的組織だ。
ここまで書けばわかるだろう。
そう、市民の安全を守ってくれる強い味方、おまわりさんだ。
つい先日、私が1万ほど儲けた話をしよう。それまでの長い、長い前振りがここまでであった。
鶴岡地区医師会館前にテレビでも報道されてしまった、魔の十字路、があるのを皆さんご存じだろうか。
交通課によれば年9件の事故が発生する、鶴岡市きっての事故スポットだ。
ここでは朝、夕と張り込みの警察官が身を潜め、今か今かと犯罪者を狙いすます。
ひとたび歩行者が横断歩道に立ち止まり、車が停止することなしに通過しようものならパトランプが光り始める。
あの光に照らされたものは、僥倖のかけらもなく、ただ道端に鎮座するほかない。
我々を思考停止に陥らせるその光は、予め輝くときと、そうでないときがある。
彼らはそのメリハリで以てして、我々に潜在的に危険意識を植え付けようとしてくるのだ。
「光ってなくても見てるからね...?」
どこかメンヘラにも見えてしまうような巧妙なテクニックは、おまわりさん側の心理を読めば理解はそう難くない。
ずっと光っているよりかは、光っていない時の方が警戒される。常に張ってなくても「おまわりさんがいるかもしれない」と脳裏にすり込めれば、彼らの張り込みは成功につながるのだ。
無論、その道中で「引っ掛ける」ことができればそれはそれで彼らの手柄となる。
「あいつら、光ってなくてずりーぞ」
はあくまで「足りなかった」側の発言だ。そもそも止まらねばならない所で止まらないのが悪い。将来的に人間をひき殺す可能性がある行為をしているのにも関わらず、反省できない時点でそれは犯罪に値する。これが国の定めた掟なのだ。
と言っても、あの十字路は脅威だ。いくら理解出来ていても人が立っているのに気付くのが遅れてしまえば、餌食となる。
「やべ、気付かなかった」「うわ、前のやつかわいそ」「ふっ、僕だったら確実にやられてたね」なんて場面を誰しもが経験したことがあるのではないか。
かくいう私は先日、完全勝利を果たした。
Fとごはんに行こうと帰る道すがら、二人とも車で来ていたために各々の車で公舎に帰ろうとしていた。
冬というのもあり、6時30分ともなれば辺りはすっかり真っ暗で、街頭が無ければ辺りはよくみえない。
自転車に乗るばーさんがよろよろと運転し車道にはみ出してくるのに集中しながら追い抜き、魔の十字路に差し掛かった時だった。
横断歩道には人が立っている。やけに服装がはっきりと見える。眼鏡をかけていて、中肉中背の、40代くらいのおばさんで鼠色のダウンを着ていた。
普段だったら気付かずにスルーしてしまいそうな色味なのに、なぜか目についた。
直感的ではあるが、何かがおかしい。これは違和感を感じてしまう類のワンシーンだ。
後ろに車が近づいていないことを確認しながら、普段よりも少し強めにブレーキを踏む。横断歩道よりもやや距離をとったところで停止し、歩行者をよく見る。
どうも見ている方向が、まっすぐではない。横断歩道の先、自分が歩く先を見ているのではなく、どこか遠くを見ている。
そして、見れば見るほどその歩行者ははっきりと見えている。
おもむろに歩行者の目線の先を眺めてみると、本来私が走行する車線に並行に車を止める駐車場の中に、一台道路に向かって垂直に、斜に構えているような車が見える。
ライトは黄色で、中に何人が乗っているかはわからない。光量が強いのもあるのだろう、逆光となり内部が確認できない。これだけ歩行者を当てるようにライトを照らしていれば、いつもより歩行者が明るく見えるのは納得できる。しかし、なぜライトが歩行者に当たるのだろうか。
「なるほど、駐車場から出ようとしているのかな?」
と思い、しばらく動かずにその車を見つめていたのだが、その車からはその場所から動こうとする気配を感じない。
後続車もなく、スペースも十分に見えたが車線をはみ出すことを注意したのかと深読みし、歩行者が半分ぐらいを過ぎたところですぐに発進してスペースを開けようと動こうとした。しかし、ここでもまた直感的に動かなかった。この直感の正体とは、横断歩道を横断中の歩行者がいる場合に横断歩道内に車が侵入した場合違反となるとの8年前の話からくる危機感や、どこか言葉に言い出しにくい違和感だった。
違和感が募り、その車をよく見てみると、上部白、下部黒の色合いで、側面中央に文字が書いてある。
前に二人が乗っており、車の屋根には何か横幅ぐらいのものが乗っけてある。
そう、パトランプが回っていないパトカーそのもの、張り込みだったのだ。
一瞬ぎょっとするや否や、私はブレーキを強く踏み込む。渡り切らずして渡った場合、それは犯罪だ。もう渡り切るまでは動かないとした意思表示をして、ブレーキランプをこれでもかと光らせる。渡り切るのを確認したのち、さらりと車を走らせその場を後にした。
無事に公舎につき、ほどなくしてFも着く。
「いやぁーすごいね、よく止まれたね。」
ああ、さっきのことか。いやいや、たまたま読み合いで勝ったんだよ!
少しひねた答えで介してみる。
「いやぁー。あの後さ、僕の車の後ろがパトカーに追いかけられてたよ。僕はつかまらなったけど。」
これはさすがにぎょっとせざるを得ない。ラッキーであった。
---
このラッキーは単にラッキーだけだったかと言えばそうではないのは明らかであろう。
私のおまわりさんの考え方、おまわりさんの損得勘定、おまわりさんが犯罪防止のため市民に対しどう対処しようとしているかの考察をした上で立ち回れたからこそ、しかるべき結果を生んだのだ。
こう長々と文章を書いてきて言うのもあれだが、逆や対偶を取ったり、例外を挙げ始めればすぐにうすぺっらいことに気付けるだろう。これもまた、そうした相手に対しては、しかるべきことなのだろう。
大概のことは、その時々に応じて順当に事が過ぎてしまう。だからこそ人は、その時々でいいとこどりの妥協点で以て自分を満たしてしまうのだろう。
2年目研修医 佐藤
PS 言いたいことはただ一つ。十字路ではパトカーを探すのではなく、歩行者を探そう。
2020年01月10日