研修医の声

第13回ノーマライゼーション親善交流卓球大会

昨年参加した第12回はこちら

第12回ノーマライゼーション親善交流卓球大会

今年も参加してきました、1/19でした。

おおむね大会の趣旨や、雰囲気も変わりなく同じようなので詳細は省略。

今年も同じく市長さんとおはようございます、元市議会議員さん、鶴岡卓球協会の役員の方々とご挨拶。

この一年なんだかんだ鶴岡の大会に顔を出しており、定期的に顔を合わせていたのもあって「皆さんお久しぶりです」と、顔なじみの雰囲気。

「院長に許可取って、お休みもらってきました」

と威勢よく言うと、このフレーズをそのまま引用されて挨拶で話されたり、十二分にネタとして使っていただけて光栄です。

・・・まぁ実際は少し違うんですけどね。

私「院長、私また行ってきますから。いいですよね?」

院長「えっ?あぁ...いいよ」

私「では行ってまいります」

ぐらいの、やや食い気味で参加宣言してきたので、頼み込んできたというよりかは圧で押し切ってきたというような感じ。

オーベンにお願いするにしても

私「私、市長と市議会議員と卓球してきます。なんで休みます。」

オーベン「なんだ、それサボりか?」

私「いえ、ノーマライゼーションです。大義の名のもとです。」

オーベン「ノーマライゼーショ...」

私「地域貢献です。では、行ってまいります。」

オーベン「そ、そうか...。んじゃちゃんと地域活動してくるんだぞ。」

私「御意。」

頼むって態度じゃない、下の人間にも関わらず圧で押し切って休みを取ってしまいました。

しかしせっかく休めたんだから、めいっぱい卓球してこようと。今年は昨年のよりも全然練習していなくて不安でしたが、運もあってまた優勝させていただきました。

ラッキーでしたね。

地域貢献とは名ばかりで、荘内病院の名でエントリーされて、やたらめったら空気読まずに卓球してくるのが実際ですからね。

一か月半ぶりくらいに体動かして楽しかったのもありますが、試合会場を見回すとまたいろんな楽しさが散らばっています。

①陽光スポ少の子たちがみんないい子

去年よりもいい子ぞろいでした。なんだろう、雰囲気が全然違ったんですよね。(こう言うと去年卒業した子たちが曲者だったんじゃないかと勘繰られそうですが・・・

まず教育が行き届いてる。これが感動もの。

率先して審判する子はある程度決まってはいるけど、文句の一つも言わずに立派にこなすんですよ。

嫌なことでもしっかりやれる子って今どきなかなかいないらしいじゃないですか。

加えて応援が熱いし、センスがある。

ただ声出すんじゃなくて、選手に語りかける系の応援

感情が顔に出やすい子が決勝の時に、「あぁやっちまった、自滅だ」みたいないやそうな顔を浮かべているときに、見てすぐに「大丈夫だよ」って声かけしてたんですよ。

それから選手が立ち直って、そのたびごとに色々な声かけをしていて、淡白な応援の仕方じゃなかったんですよね。

「いいよ、いいよ」

「その調子、その調子」

「気にしない、気にしない」

「一本ずつでいいんだよ」

「あと一本だよ」

「いつも通りでいいんだよ」

などなど、使いまわしが少なくて、その子の顔を見ながら適切な言葉を投げかけてたんです。

これって試合の内容を理解していて、端的かつ最適な言葉選びでないと響かないってことを体感的に知ってて、人の気持ちもちゃんとわかる子でないとできないんです。

ジュニア世代の応援なんて少ない語彙でただ吠えて騒ぐだけが多いのに、ジュニアどころか小学生世代でこれだけの芸当が見れるだなんて将来有望にもほどがある。

彼らが集まれば団体戦でみなが覚醒する、最強のベンチ・コーチになれる。

それ以降その子達を見ていると、障害のある方や自分より下手な相手に合わせた取りやすいボールを送ったり、コース取りを考えたりとか細かく人をみて動いていてもう私は感動ものですよ。

ほんといい子達だったなぁ...

その中でも一番審判を頑張っていて、少し自信が無さげな子に「審判頑張ってて本当に偉いよ~」と優勝景品をプレゼント、今後も頑張っていいとこ伸ばしてってほしいな~

②みんなうまくなってる

去年と比較しても露骨にうまくなってる人もいて面白い!

前よりラリーがつなげていたり、ボールの質が攻撃的になってたり、障害を抱えながらも自分が好きなことを頑張っているんだなぁとしみじみ。

そもそも「障害を抱えながらも」って表現自体が不適切ですよね。そんな線引き自体が現代では意味が無いという意味でのノーマライゼーションなんですから。

上手くなってるってこと自体が、この大会の目的そのものを達成できているように思います。

③「障害があるから」はもったいない

健常者の私が言うのもなんですけど、ミスの原因は障がいのせい、というのは短絡的だなぁと思うこともありました。

と言ってももちろんそういうときもあると思います。しかし、それは単に見地が狭いだけ、というときもあると思います。

前年度に試合をして話したことがある選手と、「久しぶり!」とお話していたんですが、ミスの原因に「感覚障害」を挙げていて、「それはそうかもしれないけど、他で安定化可能だと思いますよ」と、偉そうに考察をしてしまいました。。。

というのも障がい者スポーツそのものの目的は、「障がいとの共存」であるはずなのだから上達できない原因を「障がい」に求めてしまったら本末転倒だと思うんですよ。

もし、そうだからしょうがないと断言してしまう指導者がいるのなら失格そのもの、私は声を大にして説教をしたい。勉強不足はなはだしいぞと。

卓球における指導法の多くは、「体の動かし方」と「打球感覚の作り方」の二方向からしか語られないことが多く、「なぜ入るのか」と「どう得点するストーリーを組み立てるのか」の観点を含めた、総合的な卓球論を語れる人間がほとんどいないんですよ。

例えば「前腕の感覚が無くてはいらない」、この主訴に相対した際に、「じゃあしょうがない」、「感覚がつくようにしよう」なんて発想じゃあ上達の糸口なんて見えやしない。

一番は「なぜ感覚が無いのか」を考察する必要があるわけで。基礎疾患によって感覚が無い、と断言してしまうのもまたナンセンス。もしかしたら感覚を極端につかみにくいフォームになってるんじゃないかと考察しなければいけません。

そもそも「感覚がある条件とは何か」を考察しないことには、前腕の感覚の有無の議論なんてできやしない。

より一般化された打球感覚の定義と、打球感覚が得られる状態を維持しながらいかに身体動作につなげるかを議論しなければ「感覚」を身につけることなどできやしない。

加えて神経学的に「感覚が無い」のは、触圧覚が無いのか、温痛覚が無いのか、位置覚が無いのか、振動覚が無いのかまで聞いた上で、卓球において必要な感覚をどの感覚に設定するのかを決めていかねばならない。

話を聞いていると、というより卓球を見ていると一般的な意味での「打球感覚」が無いのに加えて、自らの身体がどこでどう動いているかを客観的に見る感覚が少ないように感じたため、前腕よりかは上腕、ないしは肩関節の位置を意識して打点調整をする方法を説明して実際の試合の様子を観察してみた。

すると見違えるように、それまで入らなかったはずの技術が安定するし、オーバーミスが一気に減った。

「今まで全然競れなかった相手に競れました」

とお褒めの言葉まで、ただこればっかりはその本人がきちんと正しい方法を知って意識できた結果であって、別に私は何もしていない。

自分の弱点を理解して、それを責め立ててよりよくやろうと意識できたのがすごい。自分を客観視して、自分を否定して何かほかのことをするって本来難しいことですもの。

客観的に自己評価をできる人間が強くなるし、「障がいのせいだから」と半ばあきらめにせず、「じゃあどうすればできるようになるだろう」と模索し続けることが出来れば、誰に何を言われなくたって強くなれる。

少し話を聞いて、すぐに自分を変えれるような人間性であるならば、今後も勝手に強くなっていくことでしょう。今後に期待したいですね。

また一方で、下肢に障がいを抱える選手は、それをカバーするための戦術を練っていて関心させられた。

右側へ大きく動けないのにも関わらず、右側に集まるようなわかりにくいサーブを出して、浮いたレシーブをもらい、動けない右側から一発強打で一回しか動かなくてよくなるような戦術を取っていた。

これって逆転の発想ですよね。ふつうは動けないなら、動ける側に来るように集めるのに。むしろ狙わせてからが勝負にする、策士の卓球。

これだけ作戦練れているんだから全国制覇できたんでしょう、すごいです。

早いラリーになると不利になるから、スピンを利かして遅いラリーで相手のミスを誘ったり、早いラリーになった途端に一気に打開できる一発強打を左側からも打てるように持っていたり。これもなるほどなぁと。

障がい側をあきらめるんじゃなくて、それを軸として戦える戦型、技術を持っている

ふむ、これがパラ卓球か、と。

障がいと向き合うとは何ぞやと、実際に対峙して学ばせて頂いた。

自分に自分でできないと線引きしてはならない、自分の限界はあくまで自分の気持ちでしか決められないのだと、強いメッセージ性があった。

色んな人がいて、色んな卓球をして、色んな考えに触れられて、色んな反応が見れる

いいじゃないですかノーマライゼーション

今年も楽しく卓球できました

2年目研修医 佐藤

2020年01月19日

研修医

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